このシリーズも4回目を迎えようやく本題に入ることができそうです。

この組織編では第2回でご紹介した織田信長が「常識」に初めて
挑戦した軍制改革についてご紹介したいと思います。

当時武将は大名から農村を与えられ、戦いの際には農民を連れて
合戦に参加するのが常識だったことは以前お伝えさせていただきました。

「戦略的兵農分離」といわれる織田信長の軍制改革について
織田信長の名を全国に知らしめた桶狭間の合戦をもとにご紹介します。


永禄三年(1560年)二十七歳の織田信長は生涯最大級の危機を迎えます。
大大名今川義元が総勢3万ともいわれる大軍を率いて信長の
領土である尾張に侵攻してきました。

当時の信長の動員兵力は5千にも満たなかったといわれています。

3万対5千。「常識」で考えれば勝ち目は薄い。しかしここでも「常識」を覆し、
独断・迅速な軍団を用い、今川義元の本陣に巧みに奇襲をかけ勝利したのです。

当時の軍制は村村を支配する地主、豪族の武士(家臣)が支配下の農民を
率いてくる仕組みでした。つまり兵士はすべて農民だったのです。
ゆえに農繁期には農作業に従事しなければならないため長期間の合戦が
できませんでした。

また、諸将が集まり合議制により作戦を立てていたため、行動が非常に遅く、
動員にも時間がかかるのが普通でした。
そこに信長は目を付け、「常識」に挑戦したのでした。

信長は農民を戦に使用しない軍制改革を行っています。
それが銭で兵士を雇うというものでした。
これにより信長は農繁期に他国へ攻め込むことができるようになったのです。

そして信長は生死を賭けた桶狭間の合戦においても戦い前夜に家臣と
戦評定をせずただ世間話をして解散し、その直後急に出撃しています。

もともと家臣の意見など聞く気がなかったのかも知れないですが、
従来の合議制に見切りをつけていた証拠でもあると考えられています。
ゆえにいち早く兵を集め、判断し、迅速に行動することが可能になったのです。

この勝利こそ信長の改革の第一歩なのでした。


【筆者の一言】


昨今の経営者は日々重要な意思決定を迫られることが多くなっていると思います。

時には自分では判断できないようなこともあると思います。

そこで幹部を交えて会議をするのですが、長々と話した挙句結局決まらない。
困ったものだ。というようなご相談を度々受けます。

しかし時と場合にもよりますがこの行動は無意味なこともあります。

なぜかというと、中小企業においては社長以上の能力を持っている幹部が
いるケースの方が少ないのです。
それ以下の幹部と話し合ったところで社長以上の答えが出せるはずがありません。

ゆえに不毛な時間ばかりが過ぎていくのです。

全てにおいて信長のような独断の意思決定をしてはいけませんが
時には強引なくらいの意思決定が必要な時もあります。

筆者も自分の人生において決断を迫られることがたびたびありましたが、
合理的な意思決定がすぐにできたケースの方が少ないように感じます。

それはなぜかというと自分の意思がまとまっていなかったからでしょう。
言い換えれば自分がしたいこと、やりたいことを持っていなかったのです。

それに気づき自分が主体的に人生を生きるようになってから合理的な
意思決定が多少なりとも下せるようになってきました。

自分も、現状をよく見つめて自分が何をしたいのか?
何をしなければならないのか?を常に考えるようにしています。
その準備さえあればすぐさま決断を下せる人間になれるはずです。