このシリーズもようやく半分に来ました。

今までお付き合い頂きありがとうございます。
ここまで来たら最後まで読んでくださいね。よろしくお願いします。

話を元に戻しますが、皆さんは人事制度というと何をイメージされますか?

●採用
●評価
●etc・・・

考えだすとキリがありません。しかしイメージできるということはそれが「常識」なのでしょう。

日本の採用制度は新卒一括採用が「常識」ですが、東京大学が9月入学に変更することが
検討されており(今回は見送られましたが・・・)仮に変更することがあれば、
当然それに追々する大学も多くなるでしょう。

そう遠くない将来長く培われてきた我々の「常識」が変化するかもしれないのです。

今回は羽柴秀吉(豊臣秀吉)を例にとり、織田信長の伝統や常識を無視した
抜擢人事改革をご紹介します。


信長の行った改革の第一歩は新しい軍制の確立でした。
またそれと連動して行った改革が人事制度改革です。

当時の大名は、足軽や小者に至るまで、自分の領内から調達することが「常識」でした。
いざ戦となると家臣はそれぞれの支配地の農民を率いて集まってきます。

大名の軍隊はそれの集合体でした。したがって流れ者を兵に加えることは
なかったのです。
そもそも、この時代のまともな人間は、みな何かの組織に属していました。
武士は武士で一族郎党を組み農民は村落共同体を形成し、商人は
同業者組合である座を組織していたのです。

こうした社会秩序の中、どの組織にも属さない流れ者は、乞食、
または犯罪者とほとんど同じにみなされていました。

羽柴秀吉は尾張中村郷の百姓の子として生まれます。
家出をし座に属さない潜り商人となったことから、
当時の社会秩序では、「犯罪人的社会」に加わったことを意味しています。

そのことを考えれば信長がこの流れ者秀吉を雇ったこと自体異常なことです。
しかも信長は秀吉をすぐ小者頭にし、数年後には足軽頭にしており異例の抜擢と
いえるでしょう。

こんなことができたのは戦国武将多しといえども信長ただ一人だけです。

実際各地の大名は、厳格な身分社会の中での人材活用には苦労していました。

秀吉はこの後もとんとん拍子で出世していきますが、伝統や慣習を無視した抜擢人事には
激しい抵抗を受けることになるのでした。



【筆者の一言】
人事・評価制度というと固定的で変化を拒むかのごとく、変更しない会社が多くあります。

しかし、時代が変われば当然やるべき仕事や外部から求められるものが変わります。
そうなると必然的に成果といわれるものが変わってきます。
そもそも成果の定義とは何なのかと問われれば、間違いなくこの一年間に、
会社がやってほしい事であると言えます。
会社の方針によってその成果というものは姿を変えます。
つまり会社が今年社員に徹底してほしい事を成果目標として明示し、それを徹底できる
人間を評価するのです。

年々複雑化する経営環境を考えると、経営計画の変更というのはよくあることです。
方針が変われば人事・評価の仕方も変えなければなりません。
そう考えると、人事・評価制度は流動的でなくてはなりません。

こういったことを考えると信長の抜擢人事というのは偶然ではなく、
必然だったのだと思います。

信長のように会社の方針を考え、数年後の自分が思い描く会社にするためには、
一年後こうなっていなければならない。
その達成を助けるツールとして、人事・評価制度を
使ってみてはいかがでしょうか??